「神さまの教会」  06.11.05
              使徒言行録20:17〜32

  「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」
「あがないとられた神の教会」 それが、第三回伝道旅行の最後に、
パウロがエフェソ教会の長老たちに向かって語った最後の言葉でした。
 ここに、教会とは何かということをはっきりと語られています。
 教会(キリストを信じ、礼拝を守る人々の集り)は、神さまが主イエスの
血という高価な代価を払って、あがない(買い)取って、ご自分のものに
したとおっしゃる、神さまのものです。

 それ以前の私たちは、どこに身を置いていたというのでしょうか。
 神ならぬものの支配下にいたのです。聖書は、人が、罪、欲望、死…、
様々なものに支配されていたと見ます。だれでも、思い当たることがあるに
違いありません。そこには、残念なことに永遠のものはありません。
天国もありません。永遠なる神さまのもとに身を置いていないのですから、
永遠に通じる救いはありません。神さまは、私たちをそこに、そのまま
放っておきたくないと願ってくださったのです。御子の血という、たいへん
高価なものを支払って、ご自分のものにしようと、あがない取ってくださった
のです。
 どうしてそこまでしてくださったのか、私たちは不思議に思うほどです。
 しかし、十字架の出来事は、神さまのその思いが本当であったことを
表しています。
 パウロはエフェソの教会が、揺れ動き、荒らされることを予想していました。
 人の群れである教会は、弱さともろさを抱えています。この世の影響に
振り回されることがあります。だからこそ、御子の血であがない取って
くださったことを、忘れてはなりません。そこに、たとえ荒れ果て、倒れたと
しても、やり直す力が生まれるからです。主イエスの十字架によって罪を
赦していただいているのです。

 「この教会(そこに集う人々)は、罪と死のものではなく、
私のものだ!」との宣言を受けているのです。
 その宣言に、慰められ、励まされて、進んでいくのです。
 この神さまの言葉は、私たちを作り上げ、恵みを
受け継がせる言葉です。